フェルメールについて

フェルメールが亡くなってからの作品のその後は?【決定版】

フェルメールの死後
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ヨハネス・フェルメールは作品を遺し、1675年12月25日、結婚まもなくから住んでいた妻カタリーナの実家で息を引き取りました。

そのあと、遺された家族も経済苦に陥り、様々な画策をおこないました。

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そして、フェルメールが描いた作品は、フェルメールが亡くなった随分後から世界的に脚光を浴び始めるようになります。

フェルメールの死後、作品たちはどのような運命を辿っていったのでしょうか?

この記事では、フェルメールが亡くなった後の作品たちのその後について紹介します!

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アムステルダムで作品が売りに出される

牛乳を注ぐ女
牛乳を注ぐ女

フェルメールが亡くなってから20年ほど後の1696年、実に21点のフェルメール作品がアムステルダムで売りに出されました。

売りに出されたのは、フェルメールのパトロン(スポンサー)であるフェン・ライフェン由来の作品であろうと推測されます。

こんな風に一つのコレクションに作品がまとまって所蔵されると、画家の名前がなかなか一般に浸透しにくということも起きます。

実際、18世紀の初めに出たハウブラーケンの《ネーデルランドの男女の画家の大劇場》では、フェルメールは名前が触れられているだけで、詳細な記述の対象にはなっていません。

同書は17世紀オランダ画家の研究で最初に紐解くべき画家列伝であり、そこに記述がなければ、以降の画家列伝でも取り上げられなくなってしまいます。

なぜなら、古い情報は孫引き(引用した文献を原典にあたらずに引用すること)ですますというのが列伝の類の常套のやり方でした。

それでも19世紀初めになると、フェルメールの名はオランダで刊行される画家列伝には登場するようになります。

ちょうどその頃、17世紀絵画を回顧する風潮が高まっていたのです。

そんななか、明らかに【牛乳を注ぐ女】を手本とした作品が描かれたりもしました。

オランダ国外の注目が集まる

テオフィル・トレ=ビュルガー
テオフィル・トレ=ビュルガー

しかし、フェルメールは現存する作品も少なく、いずれにせよ、オランダ国外ではフェルメールはほとんど未知の画家になっていました。

そうした状況下でフランス人の批評家トレ=ビュルガーがフェルメールを「発見」し、フェルメールに関する初の本格的な論文を1866年に発表しました。

彼がフェルメール作品として発表した作品の中には、他の17世紀風俗画家の作品や、17世紀リヴァイヴァルの中で描かれた【小路】風の作品や、同名のハールレムの風景画家の作品などが大量に紛れ込んでいました。

しかし、フェルメールへの注目を一挙に高めたことは間違いありません。

フェルメールは、以降、西洋美術史に欠くべからず画家の一員となり、作品の評価額は、うなぎのぼりになっていきました。

そして現代へ

作品の評価額が上がることは、やがて未発見のフェルメール探しを促すことにもなりました。

しかし、それに伴い、20世紀に入ると最悪の贋作事件が起きました。

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第二次世界大戦後は、その反省から、厳しい様式判断が下されるようになり、現在では32点〜37点の範囲でフェルメールの真筆作品が論じられています。

あの「モナリザ」も盗難事件から世界的に有名になり、その価値を押し上げました。

フェルメール作品も様々な事件があり、そこから作品の価値を押し上げていったのは言うまでもありません。

この記事では、フェルメールが亡くなってからの作品のその後についてまとめました。

下記では、他にもフェルメール作品(全37作品)を一覧にしてまとめていますので、ぜひこちらもご覧ください。

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