フェルメールの贋作を書いたメーヘレンとは?その事件【決定版】
現在フェルメール作品は三十数点あると言われています。
しかし、約72年前の第二次世界大戦終結の頃までは、他に約10点のフェルメール作品が真作と認められていました。
そして、第二次世界大戦後の1945年、美術界に大激震が走りました。
ハン・ファン・メーヘレンというオランダの画家が「長年フェルメール作品を描いてきた」と告白し、世紀の贋作事件が明らかになったのでした。
この記事では、この「世紀の贋作事件」とも言える贋作騒動について紹介します!
世紀の贋作事件が起こる
事件が発覚したきっかけは、ナチスの高官だったヘルマン・ゲーリングがフェルメール作品とされていた《キリストと悔恨の女(姦通の女)》を所蔵していたことでした。
流通経路が調査され、メーヘレンはオランダの国宝級であるフェルメールの作品を敵国ドイツに売却した疑いで反逆罪に問われました。
終戦後オランダでは、ナチスへの協力は罪となり、国家への反逆罪でした。
しかも売り渡したのは、オランダの至宝フェルメールの作品で、戦争の痛手が生々しい国民にはこれは到底許せないことでした。
反逆罪で収監されたメーヘレンの選択肢は2つで、一つは、《キリストと悔恨の女(姦通の女)》は自らが偽装したものと告白して罪を逃れることです。
しかし、その場合は、名品とされた自作が贋作として消えていきます。
口を閉ざせば、罪を認めたとして命を落としますが、自ら描いたフェルメール作品は国の宝となります。
厳しい追求を受けた彼は、どちらがより重罪になるか計算の上で、ついに贋作を制作して販売したことを自白しました。
しかも、その数は11作にのぼるというのです。
この突拍子もない告白を誰も信じなかったためメーヘレンは法廷で実際に絵の具を調合し、《寺院で教えを授ける幼いキリスト》を描きました。
メーヘレンは一転して「ナチスを騙した英雄」として詐欺罪という軽い判決を受けたのでした。
なぜメーヘレンは贋作に手を染めた?
メーヘレンは、自分を認めなかったオランダ美術界に復讐するために、1923年、フランス・ハルスの贋作を手がけ、まんまと売りさばきました。
しかし、オランダ美術史界の大物アーブラハム・プレディウスに偽物だと見抜かれ、足を洗いました。
けれども1932年、彼はプレディウスの鑑識眼に再度挑戦するため、フェルメールを題材に選んだのです。
メーヘレンの作品で最初にフェルメールと認められた《エマオの食事》は、一見するとフェルメール作品には見えません。
なぜ、高名な専門家たちはフェルメール真作のお墨付きを与えたのでしょう。
フェルメールは初期に宗教画を書いていますが、当時は【マルタとマリアの家のキリスト】が知られるのみでした。
そのため研究家たちは、他にもフェルメールは宗教画を書いているはずだと考えていました。
メーヘレンは贋作の作品決定に際して、美術史家の著作を読み漁りました。
画家は自分の古典的で写実的な技法を発揮できるフェルメールに決め、批評家たちが発見したいと待ち望んでる宗教画を主題としました。
《エマオの食事》には、後のフェルメールの風俗画に通じるモチーフが散りばめられています。
左側の窓から差し込む光、空の皿やワイングラスなどの静物からは、室内画の静謐さが見られます。
メーヘレンは、らしさを過剰に与えるよりも鑑定家に探させるように意匠を張り巡らせました。
フェルメールの特徴を自ら探し出したと考えた批評家の鑑定は断固としたものになりました。
画家たちの社会の中での権威からもらった《エマオの食事》の真作判定以降、メーヘレンによるフェルメールのその後の贋作は、容易に真作と認定されるようになりました。
おわりに
もし、メーヘレンが、《キリストと悔恨の女(姦通の女)》をナチスに売らず、裁判にかけられることがなければ、フェルメールの37点に、11点の贋作も加えられ、私たちもまんまと騙されていたのかもしれません。
この記事では、フェルメールの贋作を書いたメーヘレンとその事件についてまとめました。
下記では、他にもフェルメール作品(全37作品)を一覧にしてまとめていますので、ぜひこちらもご覧ください。