フェルメールが生きた時代とは?17世紀のオランダは?
【牛乳を注ぐ女】や【真珠の耳飾りの少女】で有名なヨハネス・フェルメールは「光の魔術師」とも呼ばれる画家であり、オランダのデルフト地方に住んでいました。
フェルメールが描いた作品は静謐で柔らかな光が注ぐような作品が多かったのですが、その時代のオランダは真逆の激動に満ちた時代でした。
この記事では、そんなフェルメールが生きた時代である17世紀のオランダについて紹介します!
17世紀オランダ・絶頂期
16世紀半ば、宗教的な対立をきっかけに、オランダはこの地を支配していたスペインに反旗を翻します。(オランダ独立戦争)
オランダは1581年にネーデルラント連邦共和国の独立を宣言し、1609年には休戦協定を結びました。(完全な独立は1648年)
小国のオランダが、なぜ「太陽の沈まぬ国」と謳われたスペインに勝つことができたかといえば、海運業で蓄えた富によって国力を増していたからです。
すでに16世紀からバルト海での中継貿易で成功を治めていましたが、17世紀のオランダは世界に誇る海運国家に発展しました。
1602年に設立された東インド会社はアジア方面へも進出し、海外貿易を独占します。
世界中の船舶のうち、3分の2は東インド会社が保有していると言われたほどです。
オランダはさらに潤い、世界各地の様々な文物が集まりました。
フェルメールの作品には、そうした時代をうつすような小道具が随所に登場します。
フェルメールが好んだフェルメール・ブルーの原料であるラピズラズリも輸入品でした。
こうして莫大な富を手に入れた市民たちが、社会で力をつけていきました。
王侯貴族に支配されない市民国家という、独特なスタイルが形成されていったのです。
他のヨーロッパ諸国とは異なり、絵画のクライアントも市民階級になりました。
そのため、壮大な歴史画や宗教画より身近な風俗画の需要が高まったのでした。
ただし、オランダが繁栄の絶頂期を迎えたのは17世紀の前半で、後半には貧しい時代へと変わっていきます。。
フェルメールとその時代
フェルメールは17世紀半に画家としてのスタートを切っています。
衰退したとはいえないまでも、オランダの繁栄ぶりはやや下降線をたどり始めた時期でした。
画家になった翌年には火薬庫の大爆発が起き、デルフトの経済にダメージを与えました。
また、フェルメールの晩年と呼ばれる時期にはオランダとフランスの間に戦争が始まり、国中の経済活動が停滞しました。
もちろん、フェルメールも繁栄の一端は享受したでしょうが、画家にとっては貧しい時代でもあったのでした。
フェルメールとオランダ年表
年 | フェルメール年表 | オランダ年表 |
1568年 | オランダ独立戦争 | |
1581年 | ネーデルラント独立宣言 | |
1602年 | 東インド会社設立 | |
1609年 | スペインと休戦協定 | |
オランダの全盛期 | ||
1632年 | フェルメール誕生 | |
1641年 | メーヘレンに転居 | |
1647年 | 修行開始 | |
1648年 | 正式独立 | |
1652年 | ケープ植民地建設 第一次英蘭戦争 | |
1653年 | カタリーナ・ボルネスと結婚 聖ルカ組合に加入 | |
1654年 | デルフトで火薬庫の大爆発 | |
1654 | 【取り持ち女】制作 | |
1664年 | オランダ領ニューアムステルダムをイギリスに割譲 | |
1668年 | 【天文学者】 | |
1669年 | 【地理学者】 | |
1672年 | 仏蘭戦争 | |
1675年 | 没 |
おわりに
この記事では、フェルメールが生きたオランダについてまとめました。
下記では、他にもフェルメール作品(全37作品)を一覧にしてまとめていますので、ぜひこちらもご覧ください。