フェルメールが生まれ、生涯を過ごした街デルフトとは?その現在は?
【牛乳を注ぐ女】や【真珠の耳飾りの少女】でお馴染みのヨハネス・フェルメール、彼はその生涯のほとんどをオランダにあるデルフトで過ごしました。
この記事では、そんなフェルメールが過ごしたデルフトはどんな街だったのかについて紹介します!
デルフトという街
フェルメールが生まれ生涯を過ごしたデルフトは、デン・ハーグとロッテルダムの中間地点に位置する南北1300m、東西800mほどの小さな美しい古都です。
青と白のデルフト焼の産地としても知られていますが、当時は陶業の他に、水運業や織物業、ビール業などで栄えていました。
デルフトという街は、運河を利用すれば短時間で直接北海に出られるという好立地に恵まれていました。
なので、そこで最初に水運業が栄え、それをきっかけとして織物業、陶業、ビール業などが栄えていったのです。
東インド会社がデルフトに倉庫を置いていたのもその水運に目をつけたからです。
フェルメールが活躍した17世紀には、人口約2万5000人を超え、ネーデルラント有数の地方商業都市であり、他の同じ規模の街と同様に、当時四方を壁に囲まれ、運河が街の縦横を走っていました。
中央のマルクト広場には、市庁舎と向かい合うようにして、フェルメールが洗礼を受けた新教会が立っています。
その西側にはフェルメールが幼少期を過ごし、結婚後しばらく暮らした宿屋「メーヘレン」がありました。
東側のカトリック教徒が、住む街には、義母マリア・ティンスの家があり、フェルメールの作品の多くがここにあったアトリエから生まれました。
フェルメールのデルフトでの暮らし
フェルメールの父親は「フライング・フォックス(空とぶ狐)」という名前の宿屋を経営しており、フェルメールが生まれる前年から画商もはじめました。
そしてフェルメールが9歳の頃、一家は近所に移り住みます。
この新居こそ、現在フェルメールの家として愛好家に知られる住宅兼宿屋「メーヘレン」です。
フェルメールの父は、新居に移ってからも宿屋と画商を兼業しました。
メーヘレンの室内には多くの美術品が飾られ、有名画家たちも足繁く通ってきたといいます。
フェルメールは少年時代から、芸術に触れる機会に恵まれていたのです。
フェルメールは生涯のほとんどをデルフトで過ごし、しかも生活エリアはとても狭かったようです。
生家であるフライング・フォックス、洗礼を受けた新教会、少年時代に暮らしていたメーヘレン、妻の実家、画家になって加入した聖ルカ組合、フェルメールに関係する主な場所は、街の中心部にあるマルクト広場周辺に固まっています。
例えば、フェルメールの実家と妻の実家は、広場を挟んでほぼ向かいにありました。
その他、埋葬された旧教会や影響を受けた画家の住まい、パトロンと目される人物の家なども、マルクト広場からほど近い場所にあり、歩いてもたいして時間がかからない距離でした。
そもそもデルフトの街自体が小さいということもあるのですが、フェルメールは徒歩で数分圏内というエリアで人生を送っていたのでした。
故郷をその目で見ようと、デルフトを訪れるファンが多いです。しかし、残念ながら、デルフトにはその作品は一点も残っていません。
デルフトの火薬庫の爆発
1654年10月12日に起きたホラント州・西フリースラント州で火薬庫の爆発が起きました。
爆発した火薬量は9万ポンド。被害は、市のシンボルともいえる新教会のガラスが割れ、デルフト市の北東部が壊滅状態になるほど凄まじいものでした。
以降、デルフトは徐々にオランダの表舞台から姿を消していくことになります。
大爆発の影響は画家たちにも及びました。
当時デルフトで活躍していた画家ファブリツィウスは爆発の際に命を落としました。
1661年には、ピーテル・デ・ホーホがより多くの需要を求めてアムステルダムに移住していきました。
少しずつ元気をなくしてくデルフトの美術の世界、フェルメールはそんなデルフトにとどまり、静かに自らの世界と向き合い、制作を続けたのです。
おわりに
風景画の最高傑作ともいわれる【デルフトの眺望】に描かれ、作家プルーストが絶賛した美しい街並み。
デルフトは現在もフェルメールが暮らした17世紀当時の面影が色濃く残り、フェルメール作品の世界に一歩近づくことができるのです。