フェルメールの晩年は?その頃の作品は?【保存版】
フェルメールは1675年12月15日、享年43歳でフェルメールはこの世を去りました。
働き盛りの年齢で、家には未成年(25歳以下)の子どもがまだ8人もいました。
晩年と呼ぶには早すぎる年齢ですが、フェルメールはその短い画家人生の中で最期にはどのような作品を残したのでしょうか。
この記事では、晩年のフェルメールの様子、作品の特徴、晩年期の作品について紹介します!
晩年のフェルメールの作品様式
1660年代も終わる頃から、フェルメールの様式に再び変化が起き始めます。
まず一つは、光の処理です。
それまでのフェルメールは、ほどよい照射光のもとで丁寧な明暗表現を心がけ、反射光は誇張しつつ局所的に用いるのが常でした。
ところが60年代終わり頃からは、光をやや強めにして明暗を簡略に処理するようになります。
そのため、メリハリの効いた切子細工のような細部も散見されるようになります。
二つ目は、これも光の扱いと関連しますが、輪郭線を極めて鋭角的に描くようになります。
従来のフェルメールは、モチーフの輪郭の部分で下地の色を露出させたり、一方のモチーフの色を他方のモチーフの色に少し重ねて、空気感のようなものを演出していましたが、この頃からそういう手間をかけなくなりました。
三つ目としては、ともかく様々な手法を試しては応用するようなところが出てきたことが挙げられます。
うまくいけば、【レースを編む女】の赤と白の糸のような効果が出るのですが、失敗すると【ヴァージナルの前に座る女】の衣文や画中画のようにいささか目障りになります。
このような様式の変化は、1672年をすぎる頃から決定的となり、あえて言えば質の低下につながっていきます。
晩年のフェルメールの作品一覧
ヴァージナルの前に座る若い女 | 1669年(37歳)〜1670年(38歳) |
レースを編む女 | 1669年(37歳)〜1670年(38歳) |
恋文 | 1669年(37歳)〜1670年(38歳) |
ヴァージナルの前に立つ女 | 1669年(37歳)〜1671年(39歳) |
手紙を書く女と召使い | 1670年(38歳)〜1672年(40歳) |
信仰の寓意 | 1673年(41歳)〜1675年(43歳) |
ギターを弾く女 | 1673年(41歳)〜1675年(43歳) |
ヴァージナルの前に座る女 | 1673年(41歳)〜1675年(43歳) |
晩年の作品の中でも【信仰の寓意】は2022年に初来日しており、日本で本物を鑑賞することができました。(現在はできません。)
晩年のフェルメールの様子
フェルメールが亡くなった経緯や死因は未だ不明です。
ただ、フェルメールの妻カタリーナは、晩年のフェルメールの様子についてこう語っています。
肉体的な不調というよりは精神的な不調に悩まされていたと読める証言で、いわゆる躁鬱病のような状態だったのではないかと推測されています。
フェルメールを取り巻く環境は、確かに厳しかったようです。
1672年にフランスとの間で勃発した戦争の余波で絵が一枚も売れず、多額の負債を抱え込みました。
カタリーナによれば、そんな状況をひどく気に病んでいたといいます。
画家としても、一家を支える主としても、精神的に追い込まれていたのかもしれません。
死後、フェルメールは義母が購入していた旧教会の墓地に埋葬されました。
現在、埋葬されたあたりには、フェルメールの名と生没年を記した墓石を見ることができます。
しかし、遺骨はすでに共同墓地に移されているので、その場所に、フェルメールは眠っていません。
おわりに
近年、17世紀最後の四半世紀の晩年の様式をそれ以前の様式と比べて否定的に評価するのではなく、肯定的に主張されるようになってきました。
しかし、それでも【ヴァージナルの前に座る女】が以前の作品よりいいとはなかなか言い難いです。
一言で言えば、時代が変化したのです。
一気に成熟したオラン共和国に、力をつけ始めたフランスなどの列強が攻撃を仕掛けてくる、それは軍事面だけでなく文化全体にも変化を強いたのです。
その過程で、それまでとは異なる風俗画を好む顧客層が出てきました。
フェルメールは、その変化に敏感に反応し、様々な試みをして応えようとしました。
フェルメールの晩年の風俗画はその努力の軌跡だったとも考えられます。
フェルメールの晩年の風俗画はその努力の軌跡だったとも考えられます。
この記事では、フェルメールの晩年とその作品、表現方法についてまとめました。
下記では、フェルメールが亡くなってからのことについてまとめていますので、こちらもあわせてご覧ください。