フェルメールの青年期は?物語画家としての出発
【牛乳を注ぐ女】や【真珠の耳飾りの少女】でお馴染みのヨハネス・フェルメールですが、最初から風俗画を描いていたわけではなく、初めは物語画家として出発していました。
この記事では、物語画家として出発したフェルメールの生活やその頃の作品について紹介します!
物語画家としてのフェルメール
フェルメールは1653年12月29日にデルフトの聖ルカ組合に加入し、一人前の画家となりました。
その彼がまず目指したのは、物語画の専門家になることでした。
イタリアの人文主義の伝統では、優れた画家は豊かな構想力を働かせ、神話や聖書や歴史、あるいは何らかの寓意を表象する作品の制作に携わるべきだとされていました。
その考え方はオランダにも浸透していました。
とるに足らぬ人物を描いた風俗画や、目の前にある人物や静物をただなぞるだけの絵画は、腕の高い画家が携わるべき分野ではない、そんな美術理論の見えない縛りのようなものが働いていたのです。
だからこそレンブラントは物語画家になりました。
またそれはフェルメールも同じでした。
オランダでは物語画の注文は必ずしも多くありませんでした。
王族貴族はいないし、聖像を否定する新教(プロテスタント)の主義主張をかがけていたので宗教画の注文も多くは期待できません。
ただし、フェルメールが画家として修行をしていた頃は、アムステルダムの新市庁舎が建造され、ハーグに総督の別邸ハイス・テン・ボスが新築されたりで、物語画のにわか需要が高まっていました。
フェルメールは、そうした状況を横目で見ながら修行をし、親方画家になったのです。
定かではありませんが、師事したのも物語画をよくする画家であっただろうと言われています。
物語画家として世に打って出ようと考えたとしても不思議ではありません。
物語画家の頃の作品様式
この頃の作品は、光と影、厚い絵の具をのせた筆さばきからは、カラヴァッジョの影響を受けていたユトレヒト派からインスピレーションを受けていたことがわかります。
「光の画家」と呼ばれる、光と影の表現の開花がこの頃の作品たちから見ることができます。
物語画の頃の作品
1.マルタとマリアの家のキリスト
◎スコットランド国立美術館蔵(英スコットランド・エジンバラ)
◎1654〜55年ごろの作品
◎油彩・カンヴァス
◎158.5cm×141.5cm
キリストの左側に立つのは姉マルタで、足元にしゃがみこむのは妹マリアです。
キリストをもてなすために立ち働く姉が、話に聞き入って働こうとしない妹をなじると、キリストが「マリアは必要なことをしている」とマルタを諭します。
『新約聖書』ルカ伝10章の一場面を描いたフェルメール最初期の作品で、希少な宗教画です。
絵の大きさも画風も数年の風俗画とはかなり相違がありますが、濃密な室内空間はすでにフェルメールらしさが表れています。
本作は、ルーベンスの弟子のエラスムス・クウェリヌスによる同主題の作品を参考にした可能性が指摘されています。
2.聖プラクセディス
◎日本・国立西洋美術館寄託
◎1655年作
◎油彩・カンヴァス
◎101.6cm×82.6cm
本作はフェリーチェ・フィケレッリの同名同作品の忠実な模写です。
フィケレッリの作品と違うのは、プラクセディスの手に十字架が握られていることです。
本作は2014年7月、ロンドンのクリスティーズに競売にかけられ、手数料込み624万2500ポンド(約10億8600万円)で個人に落札されました。
それまではアメリカのバーバラ・ピアセッカ・ジョンソン・コレクションが所有していましたが、2013年にジョンソン夫人が亡くなり、競売に出されました。
フェルメール作品の中で唯一日本で常設展示されている作品です。
また、この作品は今も真贋がはっきりとしていません。
3.ディアナとニンフたち
◎マウリッツハイス美術館蔵(オランダ・ハーグ)
◎1655〜56年ごろの作品
◎油彩・カンヴァス
◎97.8cm×104.6cm
4人のニンフ(妖精)を従えて狩りに出かけ、休憩している場面を描いています。
【ディアナとニンフたち】は、現存するフェルメール作品の中では神話を題材にとった唯一の作品です。
オレンジ・黄・ピンクが溶け合う暖色系の色調は、ヴェネツィア派に類似しているとも言われています。
レンブラントが描いた【水浴のバテシバ】とディアナのポーズが似ていて、参考にした可能性があります。
後世の手によって一度は青空が見える昼の情景に描き変えられていましたが、1999年の修復の際に、もともとは夜の情景だったことが分かり、本来の色に戻されました。
青空がなくなったことで、明暗表現の不自然さが消え、瞑想的な雰囲気が一層高められたように見えます。
また、科学的な調査により、右端が12cmほど切断されていることも判明しています。
おわりに
デルフトにとどまる限り、物語画の需要をそうたくさんは望めません。
レンブラントが物語画家としてやっていけたのは、アムステルダムという世界の中でも有数の豊かな大都市に暮らし、物語画を必要とする人々との出会いがデルフトとは比べものにならないほど多かったからです。
しかも、世は1650年をもって無総督時代に突入し、オランダの宮廷ともいえるオラニエ家は表立った動きをしなくなりました。
物語画家フェルメールは、デルフトで家族とともに暮らしていく限り、何らかの転身をせざるを得なかったはずです。
それが過渡期の作品とも言える【取り持ち女】の制作につながっていくのです。