フェルメールについて

フェルメールの生い立ちは?その生涯(年表)

デルフトの生涯
vermeer

【牛乳を注ぐ女】【真珠の耳飾りの少女】でお馴染みのヨハネス・フェルメール

彼の作品は柔らかな光が注ぎ、静謐さに満ち溢れたものでしたが、その人生は激動そのものでした。

この記事では、そんなフェルメールの生涯を年表にしてまとめました!

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フェルメールの青年期ー物語画家としての出発ー

マルタとマリアの家のキリスト
マルタとマリアの家のキリスト
1632年 0歳デルフトにて誕生(洗礼は新教会)
1647年15歳この頃、デルフトを出て画家としての修行を始める。
総督フレデリック・ヘンドリック逝去。
1648年16歳ミュンスターの講話。オランダが外交的に独立を認められる。
この頃から、50年代前半にかけて、アムステルダムの新市庁舎、ハーグのハイス・テン・ボスを飾るため、多くの物語画の注文が出される。
1650年18歳議会派と総督派が争い、議会派が勝利。無総督時代が始まる。
1652年20歳第一次英蘭戦争(〜54年)。建国以来、初めての不況に見舞われる。
10.12父が亡くなる。おそらくそれを機にデルフトに戻る。
1653年21歳カタリーナ・ボルネスと婚姻。証人の1人は画家のレオナールト・ブラーメル。
なお、新婦の母マリア・ティンスはこの結婚に難色を示した。
フェルメール家を支えた義母マリア・ティンスとは?
4.22デルフトでヘラルト・テル・ボルフと同じ証書に証人として署名。
フェルメールと同時代に活躍したオランダの8人の画家は?【決定版】
12.29デルフトの聖ルカ組合に親方画家として加入、入会金6ギルダーのうち、1ギルダー10スタイフェルを払う。
1654年24歳【取り持ち女】制作
7.レンブラントが自己破産申請をし、認められる。
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7.24聖ルカ組合の入会金未払い部分を完済。

下記では、この頃のフェルメールとフェルメールが描いた作品についてまとめていますので、コチラも合わせてご覧ください。

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フェルメールの転機ー風俗画家への転身ー

紳士とワインを持つ娘
1657年25歳アムステルダムの画商レニアルムの財産目録にフェルメールの【聖墳墓詣り】の記載アリ。
11.20ピーテル・ファン・ライフェンから200ギルダーの借金をする。
1660年28歳イギリスの王政復古。
デルフト新教会の塔へのカリヨンの取り付け工事が始まる。
12.27フェルメールの子が旧教会に埋葬される。その際の住所はアウエ・ライゲンデイク、つまり妻の実家の住所になっていた。フェルメールは結婚後まもなく、妻の実家に同居するようになったのであろう。

下記では、この頃のフェルメールとフェルメールが描いた作品についてまとめていますので、コチラも合わせてご覧ください。

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フェルメールの全盛期ー成熟の時代ー

合奏
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1661年29歳フランスのルイ14世の親政開始。
1662年30歳聖ルカ組合の理事(任期2年)。組合史上、最年少の理事だった。
1663年31歳フランス人美術愛好家ド・モンコニーが来訪するが、自宅には作品がなく、パン屋で一点見る。
彼はパン屋が支払った値段600ギルダーを高いと日記に記した。
1664年32歳ハーグの彫刻家、シャン・ラルソンの遺産中に評価額10ギルダーの「フェルメールのトローニー、1点」あり。
1665年33歳ファン・ライフェンの妻がフェルメールに500ギルダーの遺贈を決める。
1666年34歳フランス・ハルス没。
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1667年35歳プレイスウィック著「デルフト市誌」で存命画家として言及され、ファブリツィウスの跡を継ぐ画家と称揚される。
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1668年36歳【天文学者】を制作。
5.14
及び
6.21
P.テーディング・ファン・ベルクハウトが、この両日の日記に、「フェルメールという有名な画家を訪問し、作品をみた」と記す。5月の訪問の際には、おそらくハイヘンスも同行した。
1669年37歳【地理学者】を制作。
レンブラント没。
アムステルダム市の委託医ヤン・シスムス作成の画家リストに「ファン・デル・メール。上流の若者たちと城」の記載あり。

下記では、この頃のフェルメールとフェルメールが描いた作品についてまとめていますので、コチラも合わせてご覧ください。

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フェルメールの晩年

恋文
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1670年38歳フェルメールの母が亡くなる。
フェルメールの姉が亡くなる。
聖ルカ組合理事(任期2年)。
フランスの侵攻。
第二次英蘭戦争(〜74年)。
無総督時代が終焉し、ウィレム3世が総督に任命される。
1672年40歳
1.24
亡くなった母より相続した実家の「メーヘレン」を年間180ギルダーで賃貸に出す。
5.23H.ヨルダーンスと共にハーグに呼ばれ、イタリア絵画を鑑定する。
1673年41歳この頃より没年まで、義母の母の代理として貸し金の回収に奔走する。
1674年42歳この年までのデルフト市民防衛隊の名簿に「ヤン・ファン・デル・メール」の名前がある。
この年の義母の母の納税額は130ギルダー。財産は逆算すると26000ギルダーになる。
フェルメールの娘マーリアが結婚。
7.20この頃、1000ギルダーの借金。
1675年43歳
12.15
デルフトの妻の実家にて亡くなる。8人の未成年遺児がいた。

下記では、この頃のフェルメールとフェルメールが描いた作品についてまとめていますので、コチラも合わせてご覧ください。

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フェルメールが亡くなってから

フェルメールの墓地
フェルメールのお墓
1676年 1.27未払いのパン代金617ギルダー6スタイフェルのかたにパン屋に【手紙を書く女】【ギターを弾く女】を譲渡する。
2.24未亡人が母に【絵画芸術】を譲渡する。
2.29フェルメール夫妻の財産目録作成。3点の素描、25点の絵画が含まれていた。
いずれもフェルメールの作品ではない。
4.30フェルメールの未亡人のカタリーナが自己破産申請をし、認められる。
その際彼女は、夫が無収入だった、絵が売れなかった、子どもが11人いた、と陳述している。
破産財産管理者にアンソニー・ファン・レーウェンフックが指名される。
1677年3.15財産目録中の絵画25点と【絵画芸術】、計26点が競売に付される。
1682年6.20ファン・ライフェンの娘がなくなり、その遺産の中に20点のフェルメール作品の記載があった。
1687年12.30フェルメールの妻カタリーナが亡くなる。
1696年5.17アムステルダムのある競売で21点のフェルメール作品が売りに出される。

フェルメールは静謐な作風とは裏腹に激動の人生を送っていたのでした。

下記では、フェルメールが亡くなってからのことと作品についてまとめていますので、コチラも合わせてご覧ください。

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