フェルメールの生い立ちと生涯【決定版】
小都市の町家の一隅で、何の変哲もない日常生活を営む女性を描き続きたフェルメール、代表作には【牛乳を注ぐ女】や【真珠の耳飾りの少女】があります。
現存する作品が少ない要因の一つとして、その短い画家人生にあります。
この記事では、そんなフェルメールの生い立ちと生涯について紹介します!
①宿屋に生まれた少年
デルフトの中心地、マルクト広場に面した宿屋が、フェルメールの生まれた家です。
9歳の時にすぐ近くに引っ越しますが、酒場を併設していた宿屋には様々な人間が出入りし、その中には画家もたくさんいたと言います。
父親は宿屋経営の傍ら画商としても精力的に動いていたため、フェルメールは幼少期から絵画に接する機会に恵まれていました。
しかも、青年は年間200ギルダー(およそ200万円)の授業料をかけて6年間の画家修行をしています。
フェルメールは、一般的な労働者の年収並みの授業料を払える裕福な家庭で育ったのです。
2.デルフトの大火で師を失う
第一次英蘭戦争が勃発した1652年、父親が死去しました。
この時フェルメールは20歳です。
宿屋と画商の仕事を受け継ぎましたが、徐々に経営は傾いていきました。
翌年4月に裕福なカトリックの家で育ったカタリーナと結婚します。
宗派も家柄も違うため、当初は彼女の母親に反対されましたが、自らプロテスタントからカトリックに改宗することで結婚にこじつけたと言われています・
そしてこの年の12月29日、画家を中心として同業者組合である「聖ルカ組合」に加入しました。
組合の「親方画家」となったことにより、自分の作品に署名し、市内で自由に売買し、弟子をとる権利を手に入れました。
ところが、1654年10月、デルフトの街は火薬庫の大爆発という大事故に見舞われます。
この時、フェルメールの師の一人とも言われている画家ファブリティウスが32歳で亡くなります。
一方、壊滅的な打撃を受けた街の経済的繁栄は下降線をたどり始め、多くの画家が新しい発注を求めてデルフトを去っていきました。
窮地に置かれたフェルメールでしたが、義母に生計を頼っていたこともあり、デルフトを離れることはありませんでした。
そしてデルフトでフェルメールは、画家としての模索を始めていくのです。
3.画家としての評価が上がっていく
画家フェルメールの挑戦は、物語画からスタートしました。(【聖プラクセディス】や【マルタとマリアの家のキリスト】)
ヨーロッパでは、宗教画など歴史を描く歴史画が崇高なものだと考えられていたからです。
しかし、市民社会の成熟により風俗画の人気が高まると、シフトチェンジを試みます。
24歳で【取り持ち女】が完成すると、さらに【眠る女】を描いて、いよいよ風俗画家としてのキャリアに踏み出しました。
【窓辺で手紙を読む女】などの傑作を次々に描きますが、すぐに収入に結びついたわけではなく、義母の援助を受けつつ同居を続けています。
経済的に逼迫し、知り合いに借金をしたり、3人の子どもを失うなど、生活は苦しいものでした。
一方、画家としての評価は上がり、29歳という史上最年少のスピードで聖ルカ組合の理事に選出されます。
借金を背負いながらも、1660年代には【青衣の女】や【真珠の耳飾りの少女】など、日本でもお馴染みの傑作を描いていきます。
そして、30代の半ば、一つの頂点となる【絵画芸術】という作品を描き上げるのです。
4.十一人の子どもを遺して
脂の乗ったフェルメールは、【レースを編む女】や【恋文】などを制作し、画家としてのテクニックを磨いていきます。
しかし、1672年、フランスのルイ14世がオランダに侵攻します。
加えてイギリスとも戦争が再び勃発し、オランダの経済状況はますます悪化します。
その時、フェルメールは40歳になっていました。
不況のため絵も売れず、3年間ほとんど収入がないまま借金は膨れるばかりで、義母に頼る生活が続きました。
金利で生計を立てていた義母は、返還されない貸付金の回収をフェルメールに任せます。
オランダ中を取り立てのために歩き回り、制作に専念できなくなるという悪循環のなか、国の衰退に寄り添うように43歳で死去しました。
おわりに
11人の子どもを抱えた未亡人は、夫がこの世を去った翌日、自己破産申請の嘆願書を提出しました。
夫が遺したのは数枚の作品と借金だけでした。それもパン代のために遺された絵を渡すほどでした。
遺産の絵画は競売に出され、各方面に作品たちは散っていきました。
そして、フェルメールに光が当たるようになったのは、なんと死後200年たってからのことなのです。
この記事では、フェルメールの生い立ちと生涯についてまとめました。
下記では、フェルメールが亡くなってからのことについてまとめていますので、こちらもあわせてご覧ください。